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ietyan

頑張ります。

E.M.フォースターの小説『機械は止まる』は資本主義社会を生きる私たちに警鐘を鳴らし、希望を見つけ出せと言っている。

E.M.フォースターの小説『機械は止まる』を読んだのですが、大変示唆にとむ作品でした。

テクノロジーであふれ、膨張し続ける資本主義社会を生きる私たちに、大変重要な指摘をしています。

 

短篇集〈1〉天国行きの乗合馬車 (E.M.フォースター著作集 5)

短篇集〈1〉天国行きの乗合馬車 (E.M.フォースター著作集 5)

 

同志社大学図書館にあります。 

 

僕が勝手に思った、筆者が私たちに伝えようとしている3つのメッセージを書いています。

人間が地下に住み、なんでも機械がやってくれ、SEX以外に人間が手を触れ合うことはなくなった世界で、機械の世界を信じ切った母親Vashtiと、機械の世界に疑問を感じる息子Kunoの会話を中心に物語は展開されます。

 

1、不完全な人間を完全にしようとする人間の思想は人間を滅ぼす

 

人間の普遍的な欲求によるものなのか、資本主義という社会システムのどちらかがそうさせるのかは分からないが、テクノロジーの進化はとどまることを知らないし、負の面があったとしても、人間はそれをもテクノロジーの力で解決しようとしするだろう。

それは良いことだし、止めることはできない。

しかし忘れてはならないことを本作品では伝えている。

それは、機械を神と崇めてはいけないこと、信じ切らないことだ。本作品では、人々が機械のマニュアル書をまるで聖書のように扱い、生きるよりどころとしている。

機械がおかしくなった時でさえ、またそのおかしくなった元であるマニュアルに頼ろうとしている。

しかし、本書の最後で描かれているように、その機械に頼れなくなった時、いとも簡単に人間は崩壊していく。

Vashtiの会話を読む限りでは、人間が機械を制圧しているように見えなくもないが、機械を疑わない、機械を信じ切った時点で、人間は滅んでいる。

本書で描かれている世界は人間が滅んでしまった世界であり、こんなSEX以外で触れあることがないような世界を生きたいか?と筆者が聞かれているような気がしてたまらない。

 

2、最終的に争うのは、機械と人間ではなく異なる価値観を持つ人間同士である

 

VashtiとKunoのやり取りから分かるように、機械と人間が抗争しているのではなく、異なる価値観を持つ人間同士が抗争している。

一見、テクノロジーの進化により、人間VS機械の戦争といった未来が予見されるが、(もちろんその可能性もあるが)本作品で、強調されていたのは、人間同士の争いであった。機械と人間があからさまに対立するような描写はなかった。

VashtiとKunoは親子の関係であるにも関わらず、思いをまったく共有できていない。Vashtiが常にKunoにあきれている様子が描かれていた。

機械を信じ切るVashtiと機械に疑問を持つKunoのように、機械に対する態度が人間を大きく2つのグループに分けるのだろう。

まるで、古代に人間が神を信じるか信じないかで分かれたように。

もし機械と人間が戦争を起こせば、それは一見機械と人間の戦争のように見えるが、実は人間に戦争をさせたい人間と人間の対立であろう。結局機械を作るのは人間である限り、人間の意思が機械には反映される。

争いの責任は機械にではなく、人間にあることを筆者は伝えったかのではないか。

 

一方で、プラスのメッセージも発信しているのではないか。

 

3、世界を疑い、行動せよ!

 

VashtiとKunoのやり取りから、Kunoが一貫して現在の科学のあり方に疑問を持っていたり、外の世界を見たがっているのが分かる。

Vashtiは自分の世界に対して何も疑問を持っておらず、機械を信じ切っていた。最近はやっているマンガの「進撃の巨人」に大変似た状況設定である。「進撃の巨人」では、壁の中に囚われ外の世界を見ることなく過ごす多くの人間と、世界の真理を知りたいと言って壁の外に飛び出す主人公エレンは対比的に描かれている。

そして、社会の閉鎖的状況と、そこから抜け出し真実を探そうとするエレンに多くの人々が共感し、歴史的大ヒットとなった。

「機械は止まる」でも、VashtiとKunoは「進撃の巨人」の状況設定と同じように対照的な人物として描かれている。

本作品でも同じ見方、同じメッセージを受け取ることができる。

Kunoのように行動し、動き、失ったものを見つけよと。

これは警鐘のメッセージではなく、希望のメッセージである。

一見、何も考えなくてもいい安定した完全無欠の世界は天国のように思われる。しかしそれは本当に完全なのか?何かを失ったがゆえの完全ではないか?

その失ったものを取り戻すには、周りの反対を受け、時にはその世界の最も重い刑罰を与えれらるかもしれない。

しかし、その行動にこそ価値があるのだと、筆者は言いたいのだと思う。作者のフォースターは同性愛者で、当時の社会では自分を表現できなかったそうだ。そんな自分をKunoに投影させたのかもしれない。

こういった作品では、警鐘的なメッセージや悲観的な様子が描かれ、そればかりが強調されるが、その中から私たちは学び、希望を見出し、それを実行しかなければいけない。

おそらく筆者は私たちに、悲観的な未来を予見させながら、希望を探してほしかったのではないか。

と大胆にも予想してみたところで、

 

ぜひ皆さんにも本書を手に取っていただき、未来を考え、行動するきっかけになってほしいと思う次第です。

 

テスト勉強頑張りま。